2014年8月26日火曜日

砂沢文化でいこう!

昨夜は中央公民館相馬館主催のやすらぎ館セミナーで、相馬ふるさと歴史研究会の中澤孝明さんと澤田健雄さんによる「土器から見た相馬の歴史」の講演を聴きました。
中澤さんは、相馬の地名と伝説をテーマに郷土史家として高名だった父・秀義さんの編さんした「相馬村誌」にもとづいたお話でしたが、メインのテーマを語られた澤田さんは地元の遺跡発掘にかかわる立場として土器なども持参して縄文土器の用途による製法の違いや縄文晩期には縄目の紋様のない土器が村から出土して五所式土器と名づけられて弘大に保管されていることなど、興味深い内容で勉強になりました。

それから一夜明けてみると、朝日新聞に利根川以北は弥生文化が広がらなかったという記事が出ていました。
これは、現在国立歴史民俗博物館で行われている「弥生ってなに?!」展を企画した藤尾慎一郎副館長の説によるもので、一部には水田耕作が伝わっても青銅器文化が伝わらず土偶祭祀が続いていたこの地域を、当時の代表的な遺跡の一つで現在では溜池となっている砂沢遺跡から「砂沢文化」と命名する提言がされているのだそうです。
この遺跡は、縄文晩期から「砂沢文化」期の遺跡で、水没して確認できないものの北限の水田遺跡として知られる田舎館村の垂柳遺跡以上の規模を誇るものであるそうですが、場所としては大森勝山遺跡から平野部に下りてきた位置にあり、生活や信仰の面でも連続性が感じられる重要な遺跡であると言えます。
西日本では縄文から弥生そして土師器・須恵器へと土器分化は進んでいくのですが、北日本では弥生の水田文化はほどなく消えて擦文式土器の文化へと「退行」したかのように説明されてきましたが、この縄文~「砂沢」~擦文という流れの方がスッキリしていますし、それだけ青銅器祭祀から大和朝廷を生み出した文化系列とは別世界であったことの証明にもなります。

歴史の流れを下っても、中世の博多と並び称された十三湊に栄えた安東氏は、蝦夷千島国王と名乗って当時の李氏朝鮮に使いを出したことが正史である「李朝実録」に記録が残っており、幕府朝廷からの官位は受けていても別の国であるという気位を持っていたことがわかるだけに、正史とは違う流れにある津軽そして北海道を含めた北日本の歴史を地元の子どもたちにどう教えていくべきかは重く深遠なテーマでもあるのですが、今回の「砂沢文化」は国として歴史を研究する立場からの説であるだけに、大手を振って教えることができるはずですから、ぜひ積極的に取り組むべきだと思います。
これまでは、縄文中期といえば三内丸山、晩期といえば亀ヶ岡と、青森県ではあっても他地域の遺跡が冠せられていたのが、今度は堂々と弘前市の遺跡が紀元前後の北日本文化を象徴することになるですから、これを推さないわけはありません。

まずは、弘前から砂沢文化でいきましょう!

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