2014年10月13日月曜日

津軽の歴史を日本史とつなぐ

幼少のみぎりには毎回欠かさずだった大河ドラマを、昨年の「八重の桜」から再び見るようになった勢いで今年の「軍師官兵衛」も見ていますが、ちょうど小田原征伐から朝鮮出兵そして関ヶ原の戦いと豊臣秀吉の天下統一から徳川幕府へと進んでいく時代に舞台が移ってきて、ドラマそのもののクライマックスでもあり日本の歴史にとっても一大転換点であるだけに目が離せないところです。
そればかりでなく、この時期は津軽氏がはじめて中央の歴史に登場してくるということからして津軽にとっても重要なところなのですが、このことを知っている人は津軽にどれだけいるのでしょうか?
今回は、津軽の歴史と教育のことを考えてみたいと思います。

お門違いなところから話をはじめますが、今回の「官兵衛」でも例によって石田三成は秀吉をダークサイドに引きこんでいく悪役として描かれていますが、大河ドラマでこの時代に接した一番の最初が城山三郎原作「黄金の日々」でして、そこでは主人公・呂宋助左衛門の友人であり堺奉行として交易にも千利休にも理解のある「治部殿(じぶどの)」として活躍していた第一印象が強いだけに、どうも違和感を感じてしまいます。
それは、津軽の歴史にとっては石田三成は欠くことのできない存在だからというひいき目があるからでして、公式に認められている関係でいえば、藩祖・為信公の長子・信建の烏帽子親を務めた事実があるばかりでなく、元服後に大坂城に小姓として務めた信建は関ヶ原の戦いでは三成方の西軍に加わったばかりでなく、敗北して落ちのびることになった三成の子を津軽にかくまい、次子は杉山源吾と名乗り源吾の子は津軽藩の家老を務め、次女・辰姫は二代藩主・信枚公の側室・大館御前として後継ぎ・信義公を生んだとされています。
ちなみに、信枚公の正室は徳川家康の養女・満天姫ですので、関ヶ原では勝った家康も津軽の血筋争いでは三成に敗れたという衝撃の事実があるばかりでなく、秀吉の小田原征伐に南部氏よりもいち早く参陣したおかげで所領安堵してもらったご恩を忘れず、源吾が伝えたという秀吉座像を幕府滅亡まで弘前城北の郭に建神として秘匿して祀っていたほど、津軽家にとっては秀吉そして三成との関係は深かったのです。この座像が今は為信公の墓所である革秀寺に安置されているといえば、どれだけ大切なものかご理解いただけると思います。

これらの事実は、一般的には理解が乏しいにしても津軽の歴史としては定説のように扱われており、それが『津軽太平記』といった小説や漫画歴史書『卍の城物語』などで広まってもいますが、杉山源吾の末裔である佐賀郁朗氏の労作である『石田三成と津軽の末裔』によれば、この事実は現在でも中央の史学界では俗説扱いであり、津軽側の記録や伝承ではなく他地にある資料で実証するのに非常に苦労したことがわかりますが、同じく末裔である白取亨氏の著作ともども定説を覆すところには至っていないようです。
逆に、新書という手に入りやすい形で出版されている滝沢弘康氏の『豊臣家臣団の内幕』では、惣無事令が出された後の下克上であり相手方の南部氏には秀吉の盟友・前田利家がついていただけに、為信公の小田原参陣には三成の取次があったからこそ成功したことをわざわざ特筆するほど全国史的にも稀有のことと紹介していますが、津軽では為信公の行動力や近衛家とのご縁という視点では語られても、この場面で三成との関係についてふれているものはないように思います。
こうした津軽の認識と中央とのギャップがそのままでは、津軽の歴史を子どもたちに伝えようという声を上げるのもはばかられますので、ここはこの分野の専門課であり民間登用で博物館館長となられた長谷川成一先生に事実の精査と史学界への働きかけをしていただきたいと思います。

蛇足ですが、わが相馬地区には鎌倉幕府の残党が最後の戦をした持寄城跡、南北朝合一にあがなって逃れてきた長慶天皇伝説があるように、中央の歴史の最後が津軽につながるものがあり、この三成とのご縁もそれに連なるものと思えますが、そこには地理的に最果ての地であるばかりでなく、どこか権力に従わない気質があるからこそ呼びよせてくるものがあるように、私は自分の性格に我田引水しながら思ってしまいます。
そこまで極端でなくとも、津軽には津軽の歴史があることを、学校教育においても生涯学習の場においても伝えていくのは必要で大事なことだと思います。

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